短編「泥の中に咲く蓮」
私はわんわん泣いた。母が、本当に眠ってしまったからだ。
以前は、遅くても私が学校から帰るころには起きていた。今日の出来事を話したり、テストで良い点を取ったら褒めてくれたり――そんな日々が、ずっと続くと思っていたのに。
でも、もう母は目を覚まさない。医者は「深い眠りに落ちて、いつ起きるか分からない」と言った。
目が溶けるんじゃないかと思うほど泣き続けたけれど、母は私の声にはもう応えてくれない。
「よしよし。どうしたの?」と頭を撫でてくれることも、もうないのだ。
中学生の兄、秋次(あきつぎ)が慰めてくれたが、私は癇癪気味に「兄さんじゃなくて、お母さんに会いたい」と言ってしまった。それでも秋次は黙って、私のそばにいてくれた。
泣き疲れた私は、いつしか眠りに落ちた。
※
気づくと、私は知らない場所に倒れていた。雨が降っていて、服は泥と水を吸って重く、体も冷たかった。
「ここ、どこ……?」
あまりにも突然で、涙も出なかった。
見回すと、古びた鳥居と社務所、拝殿が見えた。神社だ。拝殿には、大きな犬が一匹、静かに寝ている。
泥だらけの服に気持ちが沈みながらも、寒さと寂しさに耐えられず、私はその拝殿へと足を運んだ。犬を刺激しないよう隅で丸くなり、秋次の迎えを待った。
――けれど、待てども待てども、誰も来なかった。
※
犬は喋れた。私の本名・絢香を隠すために、「常沖(つねおき)」という名前を与えてくれた。
ここは死神が支配する「あの世」であり、しかも現世は戦国時代だという。私は、時を超えて過去に来てしまったらしい。
この世界では、生者は異物で、放っておけば死ぬしかない。だがその犬は、食べても安全な植物や生き抜く知恵を教えてくれた。私はその知識で、飢えも賊も、何とか乗り越えた。
けれど年月を重ねても、私は成長しなかった。八歳でここに来た私の姿は、百年が経っても十歳程度だった。
そんなある日、神社に一人の女性が現れた。着物姿で、まるで聖母のような雰囲気の美しい人だった。彼女の名は――卯ノ花烈。
彼女は犬――本当は「おんじ」と言うらしい――に深く頭を下げた後、私を養子にしたいと申し出た。
どうやら私は「人間」であることが問題らしく、このままでは処罰対象になりかねないという。だから、養子縁組は表向きの保護であり、私を安全な場所へ移すための策でもあった。
私は卯ノ花の養子となり、瀞霊廷へと向かうことになった。
※
瀞霊廷では、一番偉い老人――山本元柳斎重國に引き合わされた。私の顔を見た瞬間、彼は明らかに動揺していた。それを見た卯ノ花もまた、驚きを隠せなかった。
だが、彼の口利きによって私は正式に卯ノ花家の養子となり、護廷十三隊の四番隊で下働きを始めることとなった。
行儀や作法は叩き込まれ、文字はおんじから教わっていたので苦労はなかった。けれど、唯一の問題は――鏡に映る自分が、笑っていなかったことだった。
私は、もう笑えなくなっていた。
それでも卯ノ花は、変わらず私を慈しんでくれた。そんな中で、私の治癒能力が他と異なると判明し、密かに隠密機動の治療担当にも任命された。どんなに重傷でも、跡形なく癒せるという。
私は百年、二百年と時を重ね――三百年が過ぎたころ、一つの転機が訪れる。
※
その頃、髪と瞳の色が明るい、拾われてきた子供に何故かとても懐かれ、手を焼く四方院の姫も世話していた頃、おんじが妙なことを私に言った。
「風向きが嫌な感じに流れてきた。そろそろここも潮時。離れるべきかもしれないな」と。
離れる? 下界に降りるつもりだろうか。それは別に構わないが、私は今四番隊の副隊長で隠密機動の治癒係として離れるわけにはいかないのだが……。
おんじは私と離れるのは心苦しいと言いながら、下界へ降りて行った。下界には自分を祀る神社があるらしいから、そこに一応暮らすらしい。
卯ノ花母にそのことを話すと、彼女は分かったような顔をして、「貴女も何かあってからでは遅いから準備しておきなさい」と言われてしまった。一体何があるのだと言うのだ?
※
四方院家の姫のクソガキに手を焼かれ、たまに噛みつかれもして、私は拳骨を下しながらなんとか育てたところ、幼馴染の喜助と共に悪戯をしては、私が叱る日々が過ぎていた。
おんじが下界に降りて七十年が過ぎた。
とりあえずクソガキたちの世話に明け暮れ、私の婚期はとっくに逃してしまった。四方院家の姫、夜一は私のことをよく「行き遅れのお局」と突っついてくれた。いや、私はお前らのせいで行き遅れになったんだからな? 私のお見合いをなんども破談にしたのは喜助と夜一だ。私がキレて拳を食らわせるのはいつもの日常になっていた。
そんなある日。
喜助が夜一が護廷十三隊二番隊長に任命された夜、夜一が一生の頼みと頭を下げてきた。一生の頼み? それはいったい?
それは喜助と婚姻を結んでくれと言われたのだ。何故、喜助? あれはガキではないか。だから、それはないと言いたかったが飲み込んだ。夜一の顔が真剣だったから。
「喜助と私はお見合いを邪魔していたのは、喜助がそなたを好いていたからじゃ。それを私は痛いくらい知っている。それにずっと私を見放さず見てくれたそなたには幸せになってほしい。頼む、常沖。喜助と婚姻を結んでくれ」
異性として私をずっと見ていたようなのだ。確かに私の言うことはなんでも聞いてくれたけれど、まさか……と内心ショックを受けていた。私の外見は今、二十代後半。そんな私がいいとは思えなかったが、この話を受けることができなかった。でも、四方院家の権力で外堀から埋められ、私の婚姻はこれで成立してしまったのだ。
喜助は大事にすると涙ながらに心から喜んでいる様子だったので、おんじのところに逃げ出すのはやめることにした。
そう、私は逃げ出すことはできたのだ。おんじはいつでも迎え入れてくれると言ってくれている。しかし、嬉しそうにする喜助に私は大分情があったようで袖に振ることはできなかった。
喜助が悲しむ顔を見るのは嫌だった。
祝言の夜、喜助と共に契りを交わして私たちは夫婦になった。
しかし、二十年後、私は瀞霊廷から逃げるように離れることになる。喜助を残して。
私が藍染に殺されかけたからだ。何故か?
理由は私が藍染の真実を知ってしまったから。
以前から私と彼との婚姻の話はあったが、断っていた。勘がこの男はまずいと告げていたから。それが当たっていた。
だから、私は死んだように見せかけて、下界に逃げた。
おんじの残してくれたお守りを使って。
そして、私はおんじがいる下界の神社に隠れ蓑として暮らすのだった。
そして、喜助とその仲間のテッサイと夜一が私のところに来るのはそれから十年後のことだった。
私は藍染に殺されかけたその時、喜助の子を孕んでいたので、傷を治してから気合いで産んだ女の子、常成(つねなり)と邂逅した。
喜助は私が生きていたことに泣いて喜び、常成を目も入れても痛くないくらい可愛がって育てた。夜一もテッサイも常成にはデロデロだった。うちの子可愛いだろ? 髪色と瞳は喜助似で、顔立ちは私似だ。おんじも可愛がるので、わがままに育たないか不安だが、私は藍染の影に怯えつつ、私は、泥の中で咲く蓮のように、静かに、確かに――新たな幸福を育んでいくのだった。
|
Tweet |
|
|
0
|
0
|
追加するフォルダを選択
浦原喜助の嫁の話。彼女がどう生きて、喜助と出会ったのかの話です。